…… ちょっと一言 ……
道了尊へ参拝するルートは徒歩から電車などの交通の歴史によって大きく変わりました。道了尊への参拝の道標は背景となる足柄道、東海道そして国鉄東海道線、御殿場線、大雄山線等の歴史を踏まえて記述しました。
■更新内容(サイト全体): 更新情報
昔は車などの交通の手段が無かっので、徒歩でしか参拝に行けませんでした。そして旅の道案内も街道筋に設置された道標(石柱などの道しるべ)が頼りでした。
■最乗寺の仁王門の入り口の大きな道標2基は、昔、国府津村と小田原に設置されました。しかし、江戸時代~昭和にわたり、参拝ルートと交通機関が変わったので、2基とも幾度も移設されました。主に影響を与えたのは、東海道、足柄道、そして国鉄東海道線の延長、大雄山線開通などです。そして最後に二基とも現在の仁王門の前に揃って移設されたのです。現在は道案内の役目は終えましたが、参拝の人達を見守っています。
そしてこれらの道標の成り立ちと経緯を紹介することで、参拝する人達がいかに道了尊を崇拝していたかが推測できます。尚、昔は参拝は旅行を兼ねていたこともあったようです。
■街道から仁王門近くに到着した後、参拝者は一丁目から二十八丁目までの二十八基の小さな道標(丁石)を見て、参道を進みました。この二十八基は常夜灯で宵まつりなどに足元を照らしました。富士山の参拝(登山)を目指す冨士講の人達は、たくさんの荷物を持っているので、途中(六丁目)の代官茶屋に荷物を預け、道了尊の参拝に行ったとのことです。
■室町時代中頃の応永8年(1401年)に大雄山最乗寺 道了尊(道了大薩埵)が開山しました。この頃の古代東海道は険しい箱根峠を通らず、関本から足柄峠を通るのが東海道の本道(足柄道)でした。そして道了尊の入り口の関本(坂本駅;さかもとのうまや)は宿場町でした。
■江戸時代に入り、箱根に関所が出来ると、これが東海道の本道になり、小田原が宿場町として発展するようになります。足柄道の一部は東海道の脇往還(矢倉沢往還;現在の246号線に近いルート)としてにぎわい、江戸中期以降に山岳信仰でにぎわった大山詣の後、道了尊に参拝し、富士山参拝登山へのルートにもなりました。
街道筋の道標の歴史(写真をクリック)
■写真の仁王門の入り口手前に左右の道標2基が見えます。左側の道標は東海道の国府津村に設置されました。明治22年旧東海道本線(現在の御殿場線)が開通し、松田駅から道了尊に参拝するため、酒匂川に木製の十文字橋が架けられました。そして、道標は明治36年に国府津村から松田駅付近に移設されました。参拝には松田駅から寺まで9km程を歩く必要があり、この不便さを解消するために、大正14年に大雄山線(小田原~大雄山)が施設され、開業すると、道標は大雄山(関本)駅前に、そして平成5年に現在の仁王門前の左に移設されました。*(尚、この時大雄山鉄道の筆頭株主は最乗寺であり、曹洞宗管長や多くの講の人達が株主でした。)
■右側の道標は旧東海道線(現在の御殿場線)が開通し、明治26年国府津~小田原間に鉄道馬車が開通した後に、小田原町内に建設されました。その後、大雄山線が開通し、仮小田原駅からに小田原駅移設された後、昭和36年に道標は仁王門前に移設されました。*東海道線は丹奈トンネルが出来るまで旧東海道線(現御殿場線)が本線でした。
左側道標(写真をクリック)
■左側の道標は江戸時代中期天明2年(1782)に新吉原講の人たちによって、東海道の国府津村(小田原市国府津)に建設されました。
道標正面に「道了大薩埵」、横に「大雄山最乗寺道」、台座には「新吉原講」と大きな文字が彫ってあります。現在は残っていませんが、昔は台座が数段になっており、そこには新吉原講関係者と思われる多くの氏名が記載されていたようです。
*新吉原とは、昔、日本橋の近くにあった吉原(遊郭)が浅草に移転したので新吉原と言います。
左側道標の拡大(写真をクリック)
写真の左は道標、右が道標の由来碑で道標の後ろにあるアジサイに隠れています。
右側道標(写真をクリック)
■右側の道標は、明治26年(1893)小田原馬車鉄道株式会社社長と小田原町内の有力者、および地の人達が小田原に建設しました。道標の正面に「道了大薩埵」の文字があり、その他の面にはぎっしり氏名が刻印されています。
十文字橋1(写真をクリック)
道了尊の参拝に大きな障害となった酒匂川の渡しがあります。現在は新十文字橋が設置され、そのすぐ下流に、昔からの十文字橋があります。その傍に”十文字橋の歴史”の説明板があります。文面の最初は次のとおりです
■十文字橋は明治22年(1889年)東海道線が開通し、それに伴い松田駅から大雄山最乗寺道了尊に通ずる幹線道路の橋として出来ました。この木の橋は、地元有力者が建設し金銭を取り渡らせていました。....
十文字橋2(写真をクリック)
上記と同じ場所に酒匂川の渡しの歴史に関連した”十文字渡しのけやき”の説明板もありました。文面の最初は次のとおりです
■遠い遠い昔、この付近を官道が都から通じていました。江戸時代に入ると東海道の裏街道として整備され、駿河・相模・武蔵の三国を結ぶ重要な道になりました。その途中酒匂川に設けられた渡し場を十文字の渡しと言いました。....
参道の二十二宿石燈籠(写真をクリック)
■仁王門の約3百50m下から一丁目が始まって、昔の境内の入り口?の二十八丁目まで、大雄川に沿った参道に「丁石」と呼ばれる道標が設置されています。サイズは小さいですが、常夜灯や石燈籠などで、小田原と新吉原講の人達が建てたものです。
丁石の形は常夜灯や石燈籠があり、約一丁(109m)毎に設置され、昔は道程を知らせると同時に宵祭の参道を照らしていました。道標が燈籠の役目もあり、星座名も記入されてることから星宿燈と呼ばれていたようです。この写真の中央が道標で二十二丁目で”井”の文字が刻まれ、場所は二十二丁目茶屋の傍です。
星宿燈の掲示板(写真をクリック)
南足柄市で作成した星宿燈の掲示板で、一丁目から二十八丁目までの文字と、それぞれ角、軫と中国で使用していた古い星座(星宿)名が丁目の順番に刻印されています。(現在の十二支のようなもの)
■二十八丁目の石燈籠に見られるように、明治40年設置の石燈籠は浅草新吉原 中米楼講の寄進です。
一丁目の道標(写真をクリック)
一丁目の道標は仁王門より少し下で、バス停の”参道一丁目”近くにあります。簡単な柵に囲まれ、少しわびしい感じがします。角の文字が見えます。
十七丁目の道標(写真をクリック)
このように新しく作り直した道標のあります。
二十七丁目の道標(写真をクリック)
初代和合の下駄の脇に少し傾いている二十七丁目の道標があります。右の階段は昔の参道です。
最後の二十八丁目道標(写真をクリック)
二十八丁目の道標、星宿燈は二十八丁宿常夜灯と石燈籠の二つ有ります。場所は鐘楼から先の階段を少し登った所から、大雄川に向かって参道を10m位進んだ右にあります。道標はここで全て終わり道案内の役目が終わります。
二十八丁目の道標(写真をクリック)
二十八丁目の道標は写真の杉の木を挟んで左右に一基づつあります。どちらの道標にも軫と二十八丁目の文字が見えます。
道標の拡大(写真をクリック)
上の写真の右の石燈籠の拡大です。正面に二十八丁目、左側面に東京市浅草新吉原 中米楼とあります。中米楼は新吉原遊廓でも有名な楼とのことです。関東、神奈川の広範囲から身分に関係なく、講を作って道了尊に参拝する人気がうかがえます。